怒ることはいけないこと?
最近、“笑顔を判定するAI”というものがあって、それを採用活動に活かそうとしているところがある
というニュースがありました。そのAIは取り繕った笑顔を見抜けるのだとか・・・。
ユニークな試みであると同時に、今の社会の特徴のようなものがとても反映されているなと感じました。
現代の仕事では一人だけで黙々と取り組んで自己完結するという業務よりも、チームで仕事をすると
いうことが多くなり、同僚内でのコミュニケーションや連携、チームワークがとても重視される傾向が
あるようです。
円滑なコミュニケーションには、笑顔や和やかな雰囲気づくりなどはとても有効に働くでしょう。
(そちらのニュースでは保育園を経営されている会社での採用ということだったので、お子さんへの
良い影響があるということも考慮に入れているようでした)
コミュニケーションが重視される一方で、特に若い方の間ではネガティブな感情を表出することはあまり
良くないことというイメージも強くなっているような印象があります。
例えば、落ち込みや怒りなどです。
何かを相手に言われてあからさまに落ち込むとかムッとした態度で反論するということはせず、
気にしていない態度を見せるとか言うのだとしても穏やかに指摘するという方が望ましいと
思われる傾向があるようです。
もちろんネガティブな感情は心地よくはないので、出来れば多くの方は感じたくはないでしょうし、
それを表出しなくてすむのであればその方がよいでしょう。
しかし、それ以前に「そう感じることがいけない」「こんなことで怒っちゃ(落ち込んじゃ)ダメだ」と
感情自体を否定しがちな方もいらっしゃるのではないでしょうか
感情は本来直接的にはコントロールがしにくいものです。
それこそ、自然と、勝手に出てきてしまうのです。
それをなかったことにしようとしたり無理やりに抑え込んだりしようとすると、とても心に
負担がかかります。
もちろん、だからといって、ところかまわず怒り散らすほうがよいとか、いつでもどこでも
落ち込む姿をみせたらよいとか、そういったことをおすすめしているわけではありませんし、
現実的にはそのようなことは不可能でしょう。
むしろ社会で生活していると、本当は落ち込んでいるけれども会社の部下の前ではそんな姿を見せる
わけにはいかないだとか、本当は怒っているけれども立場上言えないだとか、そんなことの連続では
ないでしょうか。
そんなとき私たちは頑張って取り繕って平静を装ったり、笑顔を保ったりするわけです。
このようなことを職場や業務上で行うことを“感情労働”と呼んだりします。
社会で生活をしていると感情労働せざるを得ないのですが、でもそれを続け過ぎると心が疲弊します。
また「本当はこう思っているけれどここでは言えないから笑顔でやり過ごそう」のように、自分で表に
出している感情と心の中の本当の感情が異なっていると自覚している場合、それはそれはとても
負担でしょう。
しかし本当は怒っているのに(落ち込んでいるのに)そこに自分では気づいておらず(あるいは
気付かないようにして)笑顔でふるまってしまっている場合は、その時は一見楽に感じられても、
それがあまりに長く続いてしまったとき、自覚した上で取り繕う以上の負担や反動があることが
多いように感じられます。
いつもニコニコ、嫌な事があっても落ち込まず、怒らず、常にポジティブなんてできたら
素敵ですが、なかなかそうもいきません。また、そうであるべきだと考えてしまうのも
とても負担ですね。
ですから、せめて感じた感情そのものは否定せず、自分でわかっていてあげるという機会が
もてると良いかもしれません。
Lear More私を責める私
人から責められた時、多くの方は大なり小なり嫌な気持ちになったり、つらい気持ちになったりするでしょう。
また、責められた内容について「ああそうか」と素直に納得して次から気を付けようと思えることもあれば、
「そんなつもりではなかった」とか「そんなことを言われるなんて不当だ」「納得できない」
と思うこともあるでしょう。
例え納得できなくても「次から気を付けよう」あるいは「自分では納得できないけど、考え方の違いだから
気にしないでおこう」などというように自分の中でおさめることができれば、長く後を引くことはあまりありません。
しかし、時々、いつまでもいつまでも責められたことが気になってしまうときがあるかもしれませんね。
それは、なぜでしょう?
その背景にはいろいろな理由が考えられますが、その一つに、実は自分を責めた人と同意見の自分が、あるいは
自分を責めたいもう一人の自分がいて自分自身のことを内側から責めている・・・ということがあったりします。
実は一番つらいのは、そのように自分で自分を責めている時です。
人から責められても、その人から離れれば一旦はそこから逃れることができます。
でも自分が自分を責める時、私たちには逃げ場がありません。
社会一般的にこうした方が良いとされていること、親からこうしなさいと言われてきたこと、
学校で教わってきたことなど、私たちの中にはこれまでの生活の中で学んできた「こうすべきこと」
「こうあるべきこと」がたくさんつまっています。
気にしなくていいと思っているつもりでも「こうすべき」と思っている自分が自分の中のどこかにいると
他の誰かに指摘をされたときにその自分が顔を出すのです。
たとえば「これができていないと責められた」と感じる時、自分自身でも同様に「それができていないと
本当はいけない」「できていない自分はダメだ」と思っているかもしれません。
「こうでないといけない」と責める自分がとても強い時には、たとえば相手にその意図がなかったとしても
ちょっとしたことで「責められている」と感じやすくなります。
あるいは誰にも何も言われなかったとしても、自分の言動をチェックして自分を責めてしまう場合もあるでしょう。
もし、今後誰かに責められているように感じ、それが頭から離れない時があったら「あの人が私を責めた」
ことだけではなく、自分の中にも「私を責める私」がいないかどうか目を向けてみてください。
これは以前の記事の体への気付きの話と同じですが、気付いただけでこんな自分がいたのかと楽になる
場合もあれば、それだけでは不十分なこともあります。けれど、やはりまずは気付くところからです。
もしよかったら試してみてくださいね。
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